一向に回復の兆しを見せない日本経済。円高に苦しめられ、国の借金はかさむばかり。昨年は遂に貿易収支が31年振りの赤字を記録した。
これから日本はどうなるのか。
私たちは何を頼りに、どこに向かって歩を進めればいいのか。
先行きの見えない時代の転換期に立ち向かう術を『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』の著者、水野和夫さんに聞いた。
成長がすべてを解決する時代の終わり
――今、世の大半の人は、「もう経済成長なんてないんじゃないか」「我慢して待っていても、もう景気は回復しないだろう」「資本主義も行き詰まってきたなぁ」というようなことを漠然と感じていると思います。でも、それがなぜなのか、その先を考えるためには何を手がかりにすればいいのかはまったくわからないというのが実情ではないでしょうか。
そんな時、水野さんの御著書は、私たちが今置かれている状況がどのようなものであるのか、それが何に起因しているのか、そして、その先をどのように考えればいいのかについて貴重な指針を与えてくれるものでした。
ただ不思議なのは、水野さんは八千代証券から始まって、一貫して金融・証券の世界で生きてこられた方だということです。にもかかわらず、その水野さんが「もう近代=成長がすべてを解決する時代は終わりだ」というような本をお書きになった。
執筆のきっかけは、どのようなものだったんでしょうか?
最初の直接的なきっかけは、1997年から長期金利が2%を割り始めたのはなぜかなって思ったからです。それは、証券会社で市場を分析している人間であれば、誰でも疑問に思うことだと思います。
そこから出発して長期金利が割れたのは16~17世紀しかない。だったらそこを調べてみようという、それが直接のきっかけですね。
でも、16世紀から17世紀の経済に関しては近代経済学の範疇ではない。アダム・スミスが『国富論』を書いたのが1776年ですから、近代経済学の文献を読み漁ってもその時代のことはわからないんです。そうすると近代経済学以外の分野の人の本を読まないと、今の時代は理解できないと思って、いろいろな、経済以外の文献を読み始めたんです。
それと、もう一つのきっかけは自殺者の多さですね。
――自殺者ですか?
ええ。1998年くらいから自殺者が年間3万人を超えて全然減らないのはなぜなんだろうと考えたんですよね。3万人ですよ、毎年。加えて自殺未遂の人がその10倍ぐらいだといわれていますから、30万人。家族や友人まで入れると、それだけで150万人の人がなんらかの形で自殺という悲劇にかかわっている。しかも、それが10年以上続いてるわけですから、150万人かける15年として、二千何百万人いるわけです、そういう経験者が。1億人の中で2千万人以上というのはやっぱり異常ですよね。
日本で自殺者が3万人を超えた1998年の時点で、人口10万人あたりの自殺者数ランキングを見てみると、日本以外は全部ソビエトから独立した国なんですよ。ようするに、今までの価値観が全部変わって、それに対応できない人々が自ら死を選択しているということですね。とすれば、日本において近代の仕組みが崩れたというのは、ソビエト連邦崩壊の比ではないんじゃないかと思ったんです。
日本は成長という神話を信じられなくなった。それが金利と自殺率に如実に現れている。
最終的に、経済の本質っていうのはどうやって金儲けするかっていうことじゃないと思うんですよね。証券会社はどうやって金儲けするかって血道を上げていますけど、自殺する人が多いような社会なんていうのは、明治維新いらい近代化に邁進して、一人当たりGDPの水準はそのお手本としたヨーロッパ諸国を上回って経済大国を築いたわけですが、その結果がこれでは大失敗なわけですよね。経済政策としても、いろんな社会政策にしても。
――経世済民ですからね。
90年代半ばからは、利子率だけ見てもおかしい。利子率っていうのは経済構造の象徴ですからね。利子率の低さと自殺率の高さは景気がいいか悪いかといった次元の問題を超えて、これはやっぱりおかしいと思ったんです。
そんな時に、これは確か五木寛之先生だったと思うんですが、「自殺する人は見えない戦争を戦ってるんだ」ということを何かの本でお書きになっているのを読んで、「ああ、そうか。今は見えない戦争を戦っているんだ」と思った。その本には、「自殺する人は、敵が見えている」と書いてあるんですね。
それを私が勝手に解釈すると、近代という仕組みに対して「もう、これは限界ですよ」ということを知らせるために死を選んでいるんではないか。見えない戦争を戦ってる人が、仲間に敵の大きさを知らせるために死を選択しているんだと、まさにそういうことなんだろうなと思ったんです。
――自殺者は前衛だということですね。
そうです。
確かそのくだりだと思うんですけども、五木先生は「経済的な苦しさで人間は死なない」とも書いてらっしゃった。でも、警察庁が発表してる自殺動機のトップは経済的な理由なんです。借金が多いとかですね。でも、それは死んだ人に聞いてるわけじゃないですよね。残された家族に聞くと借金がいっぱいあったとか、金策に苦しめられていたというかもしれません。表面的なきっかけはそうかもしれないけれども、その背後には借金を負って、もうどう足掻いても返せないという絶望感があるんだと思うんです。だとしたら、それは経済的な理由で自殺したんじゃなくて、絶望感が彼をそこまで追い詰めたってことなんだろうと思うんですよね。
――利子率革命の起こった16世紀の自殺率はどうだったんでしょうか。
それは調べられないんですよ。記録が残っていない。中世イタリア、特に最前線であるイタリアで自殺率が高かったかどうかっていうのがわかればいいんでけどね。
それと、もうひとつは少子化の問題ですね。これはある程度わかっているんです。
17世紀ヨーロッパでは、少子化が一番進んでいるのはイタリア・スペインだと。それはイタリアやスペインの女性が病気だったりして出生率が下がったわけじゃなく、意図的に子供の数を減らしたんだと言われてます。イタリアは中世の仕組みの中で一番栄えていたわけですが、それがあるパラダイムチェンジに直面したときに、恐らく女性たちが「このまま2人も子供を産んでしまったら、今までの生活は絶対にできない」というのを直感的にわかったんだろうなと思いますね。それは、「中世封建制社会」に対して、ものを言わない拒否だったのだと思うんです、今まで続いてきた「キリスト教絶対的神話」の物語を。たぶん、今の日本と同じなんだと思います。
若者は時代の変化を先取りしている
――なるほど。かなり危機的な状況ですね。
そのような私たちの現在を理解する手がかりとしてこの本の中では「カフカの帝国とその終焉」、「時間を神に返還する金利ゼロ」という極めて重要な概念が提示されています。
その二つのうち、私たちが直感的に理解可能なのは「時間」の概念です。今、時代が新たな歴史的段階に入っているのではないかと感じるのは、若者たちと話しているときです。今の若い人たち、特に学生と話していると、彼らの時間の概念が明らかに私たちのそれとは異なっていると感じることが多いんです。
ああ、それはなんとなくわかりますね。今、若い人たちは友達との約束の時間に行かないんですよね。ちゃんと決められた時間に行かなきゃダメじゃないのって言うと、「途中で携帯で連絡するから大丈夫だよ」なんていう。友達同士の時間っていうのはすごくルーズで、約束の時間に相手が遅れても、「いま昼寝から起きたので、これから行く」ってメールが入れば、友達が来るまで一人でショッピングしてればいいとかいうんですね。普通だったら1時間くらい遅れられたら怒ってもいいのになって思うんですけど、別にそれは普通みたいです。
時間の概念もそうですし、自動車の免許証は持たなくてもいいとか、商社に入っても海外勤務をしたくないなんていう。そういう感覚もずいぶん変わってきてますよね。
でも、私はそれなんとなくわかるような気がするんですよ。自動車っていうのは近代の象徴です。自分の意志で、より遠くへ、好きな時間に行けるっていうことですから。海外勤務をしたくないというのも、それは多分海外に行ったってもう新しい発見が何もないということを薄々わかっているのだと思います。海外に行くっていうのはヨーロッパがつくった探検とか、インディンジョーンズの世界。あれに対する価値観なんてもうない。そんなふうに若い人の行動を見てみれば、彼らの行動原理は明らかに近代のそれとは違うのだろうなと思います。
むしろ、私は若い人が近代を越えた仕組みをたぶんあと何十年かかけてつくっていくのだろうと期待しています。だから、逆に「今の若者は時間を守らない」とか、「海外に行く覇気がない」とか、「車も欲しいとは思わないのはどういうことだ」と言っている方がおかしいと思います。
この10年くらいの「引きこもり」もそうだと思うのですが、大人の基準から見ると引きこもりはいけないことです。でも、子供からすると、「一生懸命勉強しないと偉くなれませんよ」と親から言われても、お父さんが一生懸命勉強したかしないかにかかわらず、いつリストラにあうかわからない。世の中というのはそういうものなんだというのがわかっていると思うんですよね。
とすれば、そのような既存のレールに乗って塾へ行き、いい高校に行って、いい大学に行って、いい会社に就職してっていうそのルートさえも疑ってるはずです。にもかかわらず、あまり強く言われるとそのルールがある世界から身を引いてしまう。引きこもってしまうということだと思いますね。
そういう意味で、若い人の感覚からすれば近代はもう明らかに終わっている。にもかかわらず、大人は未だに死せる近代を維持しようとして成長、成長と言い続けている。
これは永遠のすれ違いですね。
――水野さんはこの御著書の中で、近代を「成長がすべてを解決する時代」というふうに定義しておられます。とすれば、今の若い人たちが「今日よりも貧しかった昨日」「今日よりも良くなる明日」という時間の流れの中に生きているわけではないということになりそうですね。
だろうと思います。
――でも、それだと現状の企業社会には適応していけそうもありませんね。
私は、利潤追求の株式会社っていうのは、もう命運がつきていると思うんですよ。もちろん、命運が尽きているっていっても、それは何十年単位のことですから、まだ1世代や2世代くらいは生き延びると思います。でも、あと数十年すればアフリカもグローバリゼーションになって、もう利潤率はいくら頑張っても上がらない。
今の日本の長期金利1%が企業の利潤率の代理変数です。それが、もう15年続いています。工場などの設備投資の減価償却が10年と考えると、本来償却期間をこえると、利潤率が上がってもいいはずなのに、企業経営者が期待する利潤率は得られていない。10年どころか4、5年ですでに設備投資が無駄になってしまうケースも珍しくない。シャープの亀山工場なんかがいい例ですけど、新たに工場を造っても償却が終わらないうちにパネル産業は撤退しなきゃいけないなんてことが起きてくる。
ということは、もう国内で利潤を追求することはできない。だから外に出て行かざるを得ない。それはもう恐らく止めようがない動きだと思います。
ところが、外に行っても中国は人件費上がってくるから、今度はベトナムに行く。ミャンマーに行く。ベトナムだったらあと10年もすればまた賃金が上がってきますから、今度はアフリカ、北アフリカに行く。すでに北アフリカには行っているらしいですけどね。
それから、また20年、30年経つとアフリカの中央部に行く。どんどん、どんどん南下していって、最終的に南極まで行ってもどうにもならないっていうことになると、もう資本主義は立ちゆかない。
それは、以前からあったことで、西欧諸国は東インド会社と共に大航海時代に乗り出して、フランス革命の時にアメリカが独立した。すると、今度は独立したアメリカが中心になって、東から西海岸へ向かって開拓を進めていく。アメリカがフロンティアを見つけて、西海岸に辿り着いたら、次にはフィリピンとかアジアとか南米に歩を進めていく。
資本主義っていうのは、そのように常に新しいフロンティアがないと生き残れないシステムなのです。
アフリカまで行って地理的には限界が来たら、もう宇宙に飛び出すか、地底でも掘り返すしかない。だから、その前に金融空間っていうバーチャルなフロンティアをつくって、そこで資本主義的成長を維持しようとしたのだけども、その限界はリーマンショックで露呈してしまった。
今のヨーロッパは、もう限界がきているということだと思いますね。
だから、もうそろそろ30年先の資本主義を担う株式会社、あるいは利潤極大化原理、それに代わるものを見つけないとやっていけないのだと思いますね。
これから先、株式会社の形態でいいかどうかも早く考えとかなければいけないと思いますね。
ボランタリー経済の可能性
――なるほど。株式会社という利潤追求集団のあり方そのものが問われているということですね。とすれば、ここ十数年で非常に人々の関心を集めているボランタリー経済の可能性も高いということでしょうか?
それはあると思いますね。NPO中心にした活動とかは非常に重要なものになってくると思います。
その場合、考えなければならないのは、「租庸調」をどうするのかということですね。たぶん、新たに21世紀型の「租庸調」の形を考えなければならなくなると思います。
16世紀以降、国民が国家に対して義務を果たすのは税金だけでした。役務の提供に関していえば、戦前までは軍隊、兵役の義務がありましたが、戦後はありませんから主に税金だけです。
それを、税金を払う人もいれば役務を提供する人もいるというふうに変えていく。それがボランティアだったりNPOを通じた活動だったりすると思うんですが、そういう形で国に対して貢献する。そういうことを考えないと、今までのように税金だけ徴収して、それを還元するというやり方では、もう時代に合わないんじゃないかと思うんですよ。
そうすると、当然のことながら国の在り方も変えなきゃいけない。株式会社は利益を上げて法人税で税金を払うわけですから、その意味ではボランティアの人たちもほとんど同じような位置づけにしないといけないんじゃないかなと思いますね。
――なるほど。
むしろ、私のイメージとしてはあと2、30年すると「株式会社って格好悪いな」という時代が来るんじゃないかと思います。株式会社に入って、一生懸命に今年も来年も対前年比何%超を目標にやっている人たちはどうも鈍臭い人で、ボランタリーの方で活躍している人の方が格好いいってふうになってくるんじゃないでしょうか。
言ってみれば、株式会社で働いている人は、「あいつ、まだちょんまげ付けてるぜ」というふうに言われるようなイメージになるかなと思いますね。
――前回のこのコーナーでお話しを伺った古市憲寿さんも、そのようなニュアンスのことを話されていました。企業に入ってとにかく一生懸命働いていればいいっていうのはもうないんだと。
たとえば月に20万のお金が必要だとすれば、一つの会社から20万円もらわなくても、こっちの会社に行って5万円だけ貰い、こっちのNPOで5万円貰い、また別のサークルで5万円という風に、4つ合わせて20万円でいいじゃないか。そうすれば、組織も自由に移動できるし、固定的な価値観に縛られることもない。そういう考え方でいいじゃないか。さらには、住む所もいわゆるシェアハウスみたいなものがあればいい。そこで暮らせば生活費を入れても月に5万円もあれば暮らせる。だったらそれで月20万稼げればいいじゃないかというような考え方だってできる、と。
そういうの、今、人気あるらしいですね。
――そうですね。そんな感じは若い人たちと話していると、なんとなく皮膚感覚としてはよくわかる気がします。
ただ、今おっしゃったみたいに、「もう株式会社は格好悪いよ」という時代がくるとすると、そこにパラダイムシフトしていくためにはやっぱり利潤追求という形ではない別の枠組みの組織論、何を中核に一つの企業を組織していくのかということが非常に大事なことになってくるのだろうと思うのですが、そのあたりはいかがお考えですか?
贈与もその一つだと思います。先ほどのボランタリーでいえば、東北に行って支援活動をすれば、それはもう贈与としての役務の提供ですから、それで税金を納めたことと同等になるというような、そういうことでいいと思うんですよね。
贈与とは言っても、そんなにすぐ株式会社がなくなるわけじゃないでしょうから、しばらくは従来型とのミックスで役務の提供もあると。贈与は租庸調の調に当たることになるでしょうか。その3つの組み合わせになっていって、だんだん税金でお金で納めるっていうのはウェイトが小さくなってくるんじゃないかなと思うんですけどね。
近代の借金は近代の仕組みで返す
――歴史的な大きな流れとしてはそんな感じかなって思うんですが、当面の現実問題としては国の借金の問題があります。日本の国債が来年度は遂に1000兆円を超える。巷間ささやかれているように、大幅な金利の上昇があればデフォルトの危機もないわけではない。その問題はどう考えればいいのでしょうか。
近代でつくった借金は近代の仕組みで返すしかないだろう。そう思いますね。
私は、ポスト近代の仕組みで近代の借金を返すなんていうことはできないと思います。なぜなら、ポスト近代はもう成長経済じゃないからです。とすれば、近代で失敗して背負い込んだ借金は近代の仕組みで返すしかない。
どういう事かというと、それはTPPであったり東アジア共同体であったりというところに、格好悪いと思われていると想像されている株式会社が海外に出て行って、最後の残された30年、40年そこで頑張って、それを税金で日本に返す。そういう方法しかもうないと思います。
――なるほど。国内でTPPの議論になると、外敵が来るというイメージだけが先行してますけど、そうじゃなくて日本企業に外に出て行ってもらうと。
出て行ってもらう。もう出て行けばいいと思うんですね。出て行って報酬だけ残してもらって、ちゃんと税金は日本に返してもらうと。それで1000兆円を少しでも減らしていく。そういうことぐらいしかないんじゃないでしょうか。30年でどれだけ返せるのかわからないですけどね。
もちろん、海外の利益だけで1000兆円全部は返せないでしょうから、あとは消費税でカバーしていく。ヨーロッパなんかも苦しい中で20%くらいまで消費税上げていますね。20%くらいまでは許容範囲なのかなと思います。消費税20%と海外収益でどこまで返せるかということじゃないですかね。
――出て行ける企業には出ていってもらう。それはいいとしても、グローバル化に対応できない企業、国内に残らざるを得ない企業はどういうふうに転換期を乗り越えていくべきなのでしょうか。
国内に残る企業は、もう大企業にしようとしなくてもいいと思います。要するにグローバル化っていうのは、見えない人と取引することですよね。どんどん規模を拡大していかなければならない。でも、国内でこれからポストモダンに対応していく企業は直接お客さんが見える所で、見える人とだけ取引すればいい。それで成り立つような仕組みでいいと思います。
――それは、たとえば平川克美さんが書かれた『小商いのすすめ』の版元であるミシマ社のようなビジネススタイルですね。ミシマ社は、書店との直接取引を中心に営業しています。もちろん、客注のために取次の太洋社も通していますが、基本は書店との直営業なんですね。書店さんに行ってこういう良い本をつくったから置いてほしいと直接交渉する。その書店の中でミシマ社を支援する人たちの輪がどんどん増えていって、今は各地の書店に「ミシマ社コーナー」ができています。
それは知りませんでしたが、要するに直接お客さんが見える所で、見える人とだけ取引するっていうのはそういうことですね。企業の拡大は考えず、お客さんと見える範囲で繋がっているというのが、私は一番大事なことじゃないかと思います。その見える範囲の中で、どれだけお客さんからの信頼を得られるかということだと思います。
たとえグローバル化して、TPPとか東アジア共同体に入っていくにしても、見える範囲でちゃんとお客さんを掴んでおけば、そんなに恐れることはないような気はします。
後世に手渡すもの
――ということは、近代を生きてきた世代と、ポスト近代を生きていく世代との価値観や行動原理が完全に分かれていくということになると思うのですが、その時、私たちは若い世代に何を伝え、何を手渡していけばいいのでしょうか。
子供たちに教えるべきなのは、古典だけだと思いますね。
その時の古典というのは、ちょうど15、16、17世紀の時期、ちょうど時代が変わり始めたときのもの、マキャベリから始まって『リヴァイアサン』のホッブズまでの、いろんな古典でいいのではないかと思います。
その中には鈴木忠志さんのやっている演劇、『リア王』とかそういうものも含まれるのかもしれません。ああいうのを観て勉強すれば、当時の人たちが抱えていた矛盾と今抱えている矛盾は結構似ているなとも思えるでしょうしね。
近代教育というのは、17世紀から始まって19世紀末から20世紀へ続く、サインエスからテクノロジーへという教育を中心にしてきたわけです。それがずっと染みついていて、原子力工学の安全支援も金融工学も儲かるのだというそういう神話を生んで、それがリーマンショックと今回の大震災とですべて崩れたわけですから、あまり17世紀から20世紀のことを学んでも得るものがもうないのだろうと思いますね。
――なるほど。よくわかりました。
最後に、国内で生き残りを賭けて戦っている私たちのような小さな企業が、このパラダイムシフトをどのように乗り切っていけばいいのか。そのあたりについてひと言アドバイスをお願いできますか。
今は歴史の変革期の真っ直中にいるのだから、危機が起きるのはもう当然だという認識でいれば、そんなに慌てることはないのではないかと思います。この危機さえ乗り越えればなんとかなるっていう考え方が一番いけないと思いますね。この危機を乗り越えたって、すぐにそれを上回る大きな危機が来るでしょう。ですから、その連続なのだという前提で経営されていれば、そんなに心配することはないと思っています。それが最後だと思わない方がいいですね。
――かなり厳しい結論になりましたが、私たちもそれを心に留めて前に進んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
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